満ち欠けの物語

結果は現実逃避ポエミーブログ

おとこのひとがきらいなのでジャニーズのファンやってます

おとこのひとがきらいだ。

 

だから男性アイドルのファンをやっている。

 

「だけど」ではない。「だから」だ。

 

ただしイケメンに限る?もしそれくらい単純だったらどんなに楽なのでしょう。

 

おとこのひとがきらい、とはいえ父親やきょうだい、友だちや同僚など関わりを持ったことのある男性から嫌な思いをさせられたことはない。

 

でも男性が男性だというだけできらいだ。

おとこだというだけで筋肉がつく強い体を持てるのがきらい。

おとこだというだけで生理痛に苦しむ日がないのがきらい。

おとこだというだけで妊娠する不安や負担がないのがきらい。

おとこだというだけで「男ってバカだよね」が許されると思い込んでいるのがきらい。

おとこだというだけで異性を征服できると信じて疑わないところがきらい。

 

いくら美しくても賢くても強くても、結局男性が作った社会のルールで男の人に勝つことなんて出来っこないと思っていた。

どれだけ自分を磨いたとしても、それは男性に選ばれるように美しく賢くあるか、または男性に選ばれなかった場合にもなんとか生きる場所を見つけられるよう強かであるか、その二択なんだと諦めていた。

 

そんなわたしに全く新しい選択肢が現れた。

それは、おとこのひとが女の子たちに選ばれることを望む世界、おとこの子だけの巨大なピラミッド。今わたしが大好きなジャニーズ事務所である。

もちろんジャニーズのファンには男性もたくさんいる。しかしやはり彼らの顧客の「マス」は女の子と呼ばれる年齢の若い女性、現代の日本社会においてあまり発言権があるとは言い難い層のひとたちだ。

うつくしく才能あるおとこのひとたちが、女の子に選ばれるため芸を披露し愛想を振りまく。

自分が生きている現実と逆転した世界があった。

 

女の子が歌って踊って話すのを見るのは大好きだけど、わたしは女性アイドルをジャニーズと同じように好きでいることはできない。

それはアイドルを愛でることが、どこかで「消費」だと感じているからなのだと思う。

アイドルのファンはいつも身勝手だ。

勝手に出会って恋をして、容姿やパフォーマンスに一喜一憂し時には不満をぶつけて、勝手に去っていく。

散々遊んで壊してある日ぽいっと捨てた子どものおもちゃのような愛が、ファンとアイドルの間にはある気がする。

だから、うつくしくたくましく素敵な彼女たちが、つまらない人間(わたしも含めて)たちの視線なんかですり減らされるのはどうにも耐えられない。

彼女たちの素晴らしさは、大衆のためでなく自分自身のために使われていくべきなのだ。

 

その点ジャニーズは、もともとおとこのひとなので心置き無く消費できてしまう。

彼らが女の子に愛されるために才能を磨き輝いていく姿を、好きもきらいも愚痴も含めて自分勝手に揶揄しているとき、その行為がおとこのひと中心の社会への復讐のように思う。

あなた方の世界の素晴らしいひとたちを、女の子が奪って消費していますよ。そう言って笑いたくなる。

歪んでいる。でも平成を生きてきた平凡な女ができるおとこのひとへの仕返しは、今のところこんな形でしか表現できない。

 

ところで、ジャニーズのおとこのひとたちは、時折女の子への嫌悪感を見せることがある。

彼らの主要顧客は他でもない女の子なのに、ミソジニーを露わにするのは彼らにとってマイナス以外の何物でもないはずなのに、だ。

そして彼らが女の子を嫌悪するとき、わたしは悲しいのと同時にほんの少しだけ癒されると気付いてしまった。

たぶん彼らも、わたしが身近な異性を別にきらいではないように、自分の身の回りにいるリアルの女の子がきらいなわけではないのだろう。

彼らがきらいなのは、おそらく「女の子」というだけで彼らを選ぶ立場にあり好き勝手に彼らを消費する存在なのではないか。

わたしは先に言った理由でおとこのひとがきらいだが、こういうことを話すと「男に選ばれない立場の魅力ない女だから僻んでいる」と反論(にはなってないけど)される場合もある。

確かにわたしは魅力的じゃないので、わたし自身の話をしてもそれは違うという証明はなかなか難しい。

だから、若々しくてうつくしくて才能に溢れたおとこのひとたちでも消費する側にいる女の子たちをきらう時に、わたしが言いたかったのはこれ!というシンパシーを彼らに抱いてしまうのだ。

 

これからも、きらいなおとこのひとが作る社会を生きる、その現実に復讐するように、輝くおとこのひとたちを愛し貶して楽しんでいくだろう。時には彼らに蔑まれ、ほんの少しの安らぎと優越感を得ながら。