満ち欠けの物語

結果は現実逃避ポエミーブログ

担降りは突然に

数週間ぶりに外の空気をおいしいと感じてはじめてぐずぐず と長引いていた風邪の終わりに気付いたような、 ある種の清々しさと解放感によって、私は、恋をしていたのだと知った。

 

中年にして、はじめての恋をした。

相手は異性のアイドルだ。

なんて書くとめちゃめちゃやばい人みたいだし実際めちゃめちゃやばい 。
生きていてすいません犯罪歴はないし今後もないように気をつけて過ごす決意をしている小市民です。
彼を好きになって(最も応援するアイドルを「自担」 と呼ぶ慣習があるのでそれにならって彼=自担とする)から、 数年が経っていたが、自担に恋をしている自覚などなかった。
なぜなら私は自担と恋人になりたいとも結婚したいとも考えておらず、さらに例えばコンサートなど同じ空間にいるときでも、「 ファンサがほしい」 はおろか自担の視界に入りたいと願うことさえなかったから。
人間関係の初歩の初歩である、 私とあなたとの相互関係を築きたいと考えたことは今までに一切な かった。
当然ながら「同担拒否」(※ 同じアイドルを好きである人と仲良くしないこと)もないし、オンでもオフでも自担が何をしていようがどんな交友関係を築こうが関係なかった。
ただステージに立つ彼が、テレビカメラの前にいる彼が、ラジオから流れる彼の声が、テキストで目にする彼の言葉が。 好きなだけ、理由なんてなく。


さて、恋とは一体なんだろうか。
恥ずかしながら、学生時代周りのみんなが沸き立っていたそれを、 私は全く理解できなかった。
だが幼稚な私は、 理解出来ていないと周りに悟られてバカにされたり、 もしくは変に勿体ぶっていると勘繰られたりするのが嫌で、流されるまま適当に話を合わせ、 恋の知ったかぶりを決め込んでしまっていた。
恋人がいれば「好きな人がいる?」トークを回避できるのだと気付いてからは、なんとなくそれらしい相手を作っておくことも覚えた。
恋愛感情を綴った歌は嫌いではなかった。 歌に乗せられたときめきや切なさや醜さや美しさには、 たまに共感さえもした。
でも恋の歌を好むことと私が恋をすることは、次元の違う話のようだった。


恋を知らないまま大人になってしまった女があるきっかけからアイ ドルにどっぷりとはまり、 熱狂のままそこそこの大人から本腰を入れた中年になっていった時期を振り返ってみると、私の取るに足らない人生においては、最も変化を必要とした時だったのだと思う。


ところで、 進んでいた方向と全く別の方向に進むことを多くの人は変化と呼ぶだろう。

でもちょっとだけ爪先の向きを変えることだって変化だし、進み続けていたのを止めてみることも大きな変化だ。
そして、 たとえそれがどんな規模の変化であっても、多かれ少なかれエネルギ ーは必要である。


自担と自担のグループを追いかけるようになって、 いっぱい笑ったし喜んだしはしゃいだし、 時には泣いたり怒ったりもした。
他人、 しかも直接作用できない赤の他人に時間 を割いて感情を動かし体力を消費していくなんてとても非生産的で合理性がない。
でもその頃の私はきっと、そうやって無意味に無闇に生み出したエネルギーで毎日を生きてい たのだなぁと、今になってわかる。


恋は、合理性で片付けられない、 もしくは生き延びていくために短期的な合理性だけで片付けてはい けない「変化」を受容するための「パワー」 を生み出す仕組みのひとつなのかもしれない。
少なくとも私の場合は、恋が生み出したエネルギーが私を今日まで連れてきてくれた。


自担とグループに支えられた、とはちょっと違う。

自担とグループに私が恋をした、その恋した力が私を支えていたんだ。

幸いなことに、誰あろう彼らのおかげで。もう支えがなくても立てる。


恋をしていた、と知るのと同時に、恋とは気付かず大切にしまいこんでいた一つ一つの思い出は、乾燥した抜け殻に変わってしまった。
好きだった映像を見ても、思いの丈をぶちまけているブログやTwitterを読み返しても、何も蘇らない。

感情の枠だけがそこにある。


いつかまた誰かに恋をする日がくるのか、または気付いていないだけでもう恋をしていて、 愚かにもまた終わる日に恋を知るのか、全くわからないしわかる必要もない。
今はただ、私を恋に落としてくれた全てに感謝している。