満ち欠けの物語

結果は現実逃避ポエミーブログ

ない脚は夢のなかで痛むのか~ライオンのあとでを観て②~

【注意】舞台ライオンのあとでのネタバレを含みます。また、レポではないのでライオンのあとでの詳細なレポートを読みたい方のご希望には沿えません。ご了承ください。

 

ライオンのあとで、大千穐楽おめでとうございました!無事に30年間の徹子さんの偉業に一つの締めくくりができたことを心よりお喜び申し上げます。

素晴らしい舞台を観劇できる機会を得て、とても幸せでした。


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これは舞台の感想ですらなくて私の個人的な感情の記録です。が、ネタバレは多分に含んでおります。

 

ライオンのあとでの主人公サラと同じように、私も脚の外科手術を受けたことがあります。結果、膝から下を失うことはなかったものの、膝に障害は残りました。

手術中の記憶はない。当たり前ですよね。サラが語ったように切っている最中その切り口をじっと見ているわけもなく、麻酔がかかっているうちに全て終わってしまいますので。

ただ、手術終わり麻酔が切れて名前を呼ばれたとき、おそらく手術室から病室へ移動するためにストレッチャーからベッドへ移される場所にいて、わかりますか?と問われた声に小さく頷きながら、裸の背中に当たる金属製の台がつめたくて、なんだか出荷されるマグロのような気持ちがするなぁという呑気な感想だけを鮮明に覚えているのです。

この間抜けな状態がなぜ印象にあるかというと、もしかすると心の奥底では「ふつうのひとにある五体の機能がもう自分にはない」ことに気付いた初めての瞬間だったからかもしれません。

 

オペのシーンは真っ暗で、呼吸器の音と金属音。会場中が息を飲んでいたそのとき、私は涙が溢れて止まらなくなりました。理由はまったく分かりません。怖かったのか、悲しかったのか。無意識下で体が覚えている記憶ってあるのかもしれないなぁなんてぼんやりと考えています。

 

手術を受けたあとのサラの心境やリハビリの描写もリアルでした。

たまに夢を見ます。夢の中では迷路のなかを走って何者かから逃げていて、走って走って、苦しくても走り続けて自分の脚力の限界以上の速さになったときにふと、あれ?私って走れたんだっけ?と気付いて目が覚めます。

膝を見れば手術の痕があるし、やっぱり脚は思うように動かなくて、まぁ走るの嫌いだし一生走らなくても済むようになってよかったなとまた眠りにつくんですけど。

だから「ない脚が痛むので、あなたにはもう脚がないのよと自分に言い聞かせた」サラの悲しさと強さと明るさが心に響きました。

 

私はサラとは違って立つべきステージも演じるべき重要な役割もなく、また周りのたくさんの人たちが支えてくださるのでさほど困難な状況に陥ったことはありません。それでも、なんで私が慰める側なの?と疑問に思ったことはあるし(ピトーさんからは慰める側?初めて聞きました!と言われそう)、リハビリのシーンのサラの悲鳴は病室が同じだった患者さんの嘆きと重なって聞こえました。

 

ただ、忘れていたことを思い出してちょっとしんどかったのと同時に、サラの姿にすごく救われた気持ちもしています。

sic transit gloria mundi

人は自然と歳をとり、世の中は移り変わってゆきます。サラのようにかつての栄光が過ぎ去り世間から忘れられようとしても、デヌーセのように培ってきた自分という人間を失ったとしても、それを悲しみ周囲を恨むのではなく、むしろ自分から過去を手放して新しい役として生きることはできると彼らは教えてくれるように感じます。

そしてその一瞬一瞬の役を演じきれば。他人の姿を見世物にする人達への抵抗として筋書きをハッピーエンドのコメディにしてしまえば。世間に笑いながら中指を立てて楽しく生きていけると思えるのです。

 

まだまだ先が長そうな人生の途中でこの作品に出会えてとてもよかった。

出演者の皆さま、スタッフの皆さま、観劇のチャンスをくれた照史くん、何より主演の黒柳徹子さんに心から感謝と賛辞を送りたいです。本当にありがとうございました。