君の想いが誰かにとどく明日がきっとある~泣くロミオと怒るジュリエット感想メモ~
【注意】舞台泣くロミオと怒るジュリエットのネタバレを多分に含みます。また、レポではないただの感想メモなので舞台の詳細なレポートを読みたい方のご希望には沿えません。ご了承ください。
シアターコクーン・オンレパートリー2020 泣くロミオと怒るジュリエット
2/22(土)ソワレ・23(日)マチネを観劇してまいりました。
この記事を書いているのは3/1、泣くロミオと怒るジュリエットの東京公演中止が決定し、まだ大阪公演の幕が上がるかはわかりません。
だからネタバレしちゃうぞ☆なんて気持ちで書いているわけではないと言い訳させてください。もしかするとこれから1回でも観に行くチャンスに恵まれるかもしれないからストーリーや見所をすこし頭に入れておきたい、または東京公演に入ることができたので思い出すよすがとしたい、そして今回入ることはかなわなかったけれどいつか必ず観に行けるよう願っている皆様へ、わたしなりの泣くロミオここが面白かったなァ!ポイントを中心に感想のまとめです。
オールメールという表現
泣くロミオと怒るジュリエットにおける最大の特徴の一つが、役者全員男性という点です。
脚本・演出の鄭さんは原作のシェイクスピア劇、そしてシアターコクーンで長年芸術監督を務められた蜷川幸雄氏へのリスペクトを込めて、オールメールに挑戦しています。では観客側から、全員男性にどういった機能があったのか?
まず第一に、圧倒的な迫力です。ロミオとジュリエットは憂さ晴らしのために訪れたダンスホールで運命的に出会いますが、そこで楽しむ男女は当然全員男性が演じています。全員男性だからこそ、重厚でパワフルな群舞。このエネルギーが発散される場を失い滞ったら、どこかで暴力に変換されて爆発してしまうのではないか・・・そんな不安さえはらむ熱さを感じます。
もう一つは、表現としての女性と、表象としての女性。劇中でメインとなる女性は柄本時生さん演じるジュリエットと八嶋智人さん演じるソフィアのお二人です。役者さんはお二人とも、普段は決して中性的な雰囲気ではありません。しかし柄本さんは登場するなり、観客であるわたしたちがジュリエットを好きにならずにいられないいじらしさを発揮し、物語の世界へぐっと引き込みます。
柄本「(略)僕にとっては、幕開けの1言目が一番ドキドキするだろうなと思ってはいるんですけどね。」(BEST STAGE 2020年2月号vol.137)
ポイントとなる幕開け一言目から客席と舞台上との垣根を取っ払う時生ジュリエットの魅力。そしてその後登場する八嶋ソフィアはのっけからのハイテンションで性別の違いなど考える暇を与えません。
演技としては、立ち方、足の向きを内側に寄せたり、手で口元を覆ったり、それ以外にも細かくたくさん女性に見える仕掛けをなさっているはずなのですが、例えば声色や話し方などは比較的フラットなので過度に「女性」を演出しておらず、女性をデフォルメしなかったことでかえってリアリティある女性像を作り出しているのではないかなと感じます。お二人のほかにも先に書いたダンスホールシーンだったり街の風景の一つとしてアンサンブルのみなさんが女装していますがこちらも本当に違和感がない!(ダンスホールシーンでめちゃめちゃかわいい方いるんですよね・・・キスマだらけのモテモテな男の人がいて彼が口説いてる子なんですが・・・顔をはっきり覚えてられない方なのでパンフやSNSを見ても全然わからないのがかなしい・・・)
演技表現として女性が過度に強調されない一方で、物語上の女性の立ち位置はどこかアイコニックだと感じます。終戦直後、女性は戦争に行く男たちを見送り、そして帰ってきてからは迎え入れ、癒やす立場でした。そのせいか泣くロミオに出てくる女性、特にソフィアは「逞しく、明るく、愛情深く、受容的で、少し愚かで、か弱く、包容力のある」「女」として描かれます。わたしは自分が女なので「そんなやつおらへんやろ~~~~」と思ってしまうのですが、ソフィアは「肉体が男性で性自認が男性のひとが演じる偽物の女」だからこそ上記の性質にしっかりとリアリティがあります。
女性に受容的な役割を与え続けることについての是非は置いておいて(わたしが引っかかってるだけですが・・・)、男性が演じたことで内面的な「女らしさ」がはっきりと現れており、劇中の男女間の断絶はとてもわかりやすく描かれています。
色彩の対比と意味
終戦直後の物語なので、全体的なトーンは落ち着いており、背景は濁ったグレーの色合いが基調となっています。腐敗しながらも死にきれない灰色の街で、男達は死に急ぐことでしか生きる実感を持てず、女達はもう誰の死も見送らず穏やかな日々を過ごしたいと願い、恋をした者だけが明日を生きようとする。ロミオとジュリエットが逢瀬を重ねたダンスホールが別世界のように煌びやかだったり、娼婦だけが派手な色合いの服を着ていたり、ごくたまに差し込まれる鮮やかな色合いがかえって非日常の不穏さを増大させます。
中でもラストシーンの衣装・背景・照明との色合いは、演出も相まってとても美しく少し怖い。一幕・二幕序盤と終盤とで衣装が違うキャラクターが何人かいるのですが、全てラストシーンに向かうためだったと気付き仕掛けの細やかさに感動しました。終わったあとふと浮かんだのは、「喪服は死者に祈りを捧げる者、つまり生者しか着用しないんだな」ということでした。
「キレイな」ロミオとジュリエット
「ロミオとジュリエット」は世界で最も有名なラブストーリーの一つでしょう。しかし、なぜモンタギューとキャピュレットが争っているのか、どうして二人は恋に落ちてしまったのか、最大の悲劇はなぜ起こってしまうのか・・・このあたりは戯曲を読んでもあまりすっきりとはしません(あくまでわたしは、です。わかるひとにはわかると思います・・・)。
さて、「泣くロミオと怒るジュリエット」は舞台を戦後日本の、しかも大阪にある架空の港町ヴェローナに置き換え、モンタギューとキャピュレットは愚連隊に置き換え、モンタギューは在日韓国/朝鮮人という背景を追加し、しかもロミオは吃音、ジュリエットは惚れっぽくて日本全国惚れた男を追っかけていたという設定・・・この二人と彼らを取り巻く彼ら以上に濃ゆい人々がいったいどんな結末に向かうのか?!
驚くべきことに、これら全ての味付けがどの登場人物にもしっかりと真実味を持たせ、かつ「ロミオとジュリエット」の愛と悲劇とを、より切実に、よりクリアに伝えることに成功しています。
桐山「見終わったら『むっちゃキレイな"ロミジュリ"観たやん』って思ってもらえるようにしていきたい。」(CLUSTER 2020年2月14日発行)
例えばドロドロの愛憎劇だって純粋な愛と言われればそうなのかもしれないし、肉体の結びつきがない精神の愛だけが綺麗な愛の物語と言うひともいるでしょう。泣くロミオと怒るジュリエットにおける「キレイな」愛は、登場人物それぞれがひとつひとつきちんとそこに至る物語を持つ、しっかりと理由のある愛だと思いました。
ロミオとジュリエットとの愛、ティボルトとソフィアとの愛、マキューシオとベンヴォーリオとロミオとの間にある友情や、ロミオとローレンス、ジュリエットとソフィアとの間にある家族愛に似た情愛、そのほか彼らを取り巻くすべての愛は、なぜか歪み、憎しみを生み、呪われたものへと変わってしまう。戦争の恐ろしさを改めて実感すると同時に、国土で戦争が起きていないこの70年ほどの間でもなお、愛を歪ませる何かは渦巻き、悲しみも憎しみも終わってはいません。誰もが明日を信じられるその日を、わたしたちが作り出すことはできるのでしょうか。現代と地続きの架空の世界で、そんな重い問いかけを投げられたような気がします。
原典である「ロミオとジュリエット」や「ウエスト・サイド物語」の核をしっかりと取り込み、さらに現代に繋がる平和への祈りを描き出した「泣くロミオと怒るジュリエット」は、紛れもなくピュアでまっすぐで「キレイ」なロミオとジュリエットでした。
さて、ベテランから今をときめく若手までたくさんのエネルギッシュな俳優さんたちが全力で取り組んだまったく新しい、それでいて純度の高いキレイなラブストーリー「泣くロミオと怒るジュリエット」。
今現在大阪公演のチケットを持ってらっしゃらない方、そして大阪公演当日に現地へ向かうことが難しい方は観劇のチャンスがありませんよね・・・。
再演要望やDVD化希望はこちらのフォームで受け付けていただけるようです。
もしご興味ありましたら是非ひとことでもご協力お願い致します。実際に再演やDVD販売に繋がるか、というより(もちろん繋がれば一番良いのですが・・・)素晴らしい舞台だったことを何かひとつ形にして主催に示したいというのが正直な気持ちです。
さあ、いつまでもクヨクヨ湿っていては、あの勝ち気なジュリエットに叱られてしまいそうなので、「アレをアレしてアレ」して終わりたいと思います。
え?「アレをアレしてアレ」ですよ?
そう、つまり、アレです!泣くロミオと怒るジュリエットの大阪公演が無事に開幕できることを、心よりお祈り申し上げます。そして行けなかった皆様にも幸運が訪れますように!