その一日は幸福でも最高でもない、ただ今までと少し変わるだけの何か
妙なタイトルですが、これはわたしの個人的な記録のため、ジャニーズWESTの5/5発売、あいみょん提供のニューシングル『サムシング・ニュー』についての情報を知りたい方にとって有益ではありません。
もしもサムシング・ニューについて知りたい方はこちらをどうぞ
https://www.jehp.jp/s/je/discography/JECN-0635
では、個人的な日記(日本のふるく有名な日記といえば土佐日記や蜻蛉日記ですが、あれらはいわば回想録のようなものだそうですね。この日記もつまりは、いや一緒にできるなどとはハナから思っておりませんけど、性質として、そういう類の日記)です。
去年の、去年というのは2020年のことですが、春に、漠然と、結婚しなければならないと思った。
もうとうに結婚可能年齢は越えて、社会人になってからも10年が経とうとした30代のわたしには長く交際している異性がいた。もちろんこの生きてきた人生のなかで色々と小さな何かしらのことはあったけれど、なんとなく、ずっとこの環境は変わらないような気がした。でもそれは平和ボケした脳の錯覚だった。2020年、その年はたまたま、彼が転職によって一時的に地元から離れた場所で生活する機会があり、その頃わたしが住む北海道では、日本国内のどこよりもはやく、新型コロナウィルスの感染拡大地域として「自粛」が求められた。
ところで、わたしにはちょっとした持病がある。大袈裟なものではないが、入院を必要とするリスクは、健康に生活している平均的な30代女性よりは少し多い。そして、治療のため、もしわたしが妊娠したとして、生まれる子がハンデを抱えるリスクもまた、健康に生活している平均的な30代女性に比べるとかなり高いらしい。
まあそういった理由でパートナーである彼とわたしは、子どもを持たない選択をしている。子どもを持たないのであれば結婚により得られるメリットもさして大きくないのでつまり結婚する必要がない、というのが2020年になるまでのわたしたちだった。
ところが、「自粛」そして「ディスタンス」である。
家族であっても、怪我や病気など何かのアクシンデントが発生した際、かなり最悪の場合を除いて病院に付き添うことができない。ましてや家族でなければなおさらだ。
どれだけ大切に思っていても、長い時間を過ごした相手であっても、戸籍上関係のないわたしたちは、他人だった。
「自粛」がいつまで続くのかはわからないが、わたしに、そしてパートナーにインシデントが発生したとして、そのときそばにいることが許されなかったら、わたしは後悔しないだろうか。でもそのために結婚という制度に飲まれる必要はあるのだろうか。ひとりで過ごしながら自分に問いかける日が続いた。
色んなことをすっ飛ばしてシンプルにすると、これがわたしたちの「結婚しなければならない」だった。
ロマンチックなプロポーズなどない。幸せな未来より現実の悲壮感を味わいながら、婚姻のための手続きやひととおりの形式的なあれこれを済ませた。
本来、結婚というのはおめでたいものなんだと頭ではわかっている。
結婚の報告をするといろんなひとが祝福してくれた。
でも少なくとも、わたしにとっては、現実に困難が起きた際に想定できる最悪を避けるための手段を、わたしと彼がたまたまその制度を利用できる資格を持たされているから使ったまでのことで、本当にただそれだけのものなのだ。わたしにとっては結婚なんて。
祝福と同時に新生活へエールを送ってくれるひともいた。
でもなぜだろう。わたしは結婚によって幸せになることなんてない。
だって、独身でも、学生の頃も、社会人になってからも、わたしはいつだって「いま」幸せであるように、「人並み」の幸せを得られるようにずっともがいて戦っていたつもりだったのだ。
結婚しようがしまいが変わらない。
考え方が幼すぎるのは自覚している。でも自分が心の中でどう感じるかは自由なわけだし、ひとに何か言われても自分との考え方の違い、と受け流していればよいのだ、とはじめは身勝手に構えていた。
そのはずが、あまりにも多くの善意によって結婚を好意的に受け止められて祝福されて励まされて、とうとうわたしの小さすぎるキャパシティーはその日、限界を迎えた。
婚姻届を提出したのは新生活を始めるための引越しをした2日後で、わたしはその日夫となったひとを家から追い出した。
なんて言い方をしたら悪妻極まりないけれど、まあ事実である。どこでもいいからどこかに行っていてほしいと伝えて、数時間パチンコに行ってもらった(勝ったらしい。縁起がいい日でよかったね)。
ひとりになった新しい住まいで、理由もないのに(あるけど)涙が止まらなくて、1時間くらい泣き続けて、1時間後、結婚しても我儘で自分勝手で泣き虫で、ひとりで過ごす時間を何よりも大切にしていたわたしは、結婚したって変わらないそのままのわたしだとしっかり自分自身に刻んで、安心して、帰ってきていいよと夫になったひとにLINEした(出てるからすぐに帰れないと言われた)。簡単な晩ごはんを用意して、わたしは誰かの妻になった。
誰にもそんなつもりはないってわかってはいるんだけど、結婚をあまりにも肯定されると結婚してなかった自分がゼロ、むしろマイナスの生き物だったと世界に突きつけられているようで、誰より自分が心の奥底ではそう感じていたのではないかと気付かされるようで、あの日は本当にきつかった。
新生活を始めてから3週間ほど経った頃、最推しのアイドルが新曲をリリースするというお知らせが飛び込んできた。テーマはウエディングソング。自分のいまの状況と照らし合わせて、正直に言うと、嬉しさよりもうんざりとした。またおめでとうラッシュかよ、と。
新曲の音源と映像が解禁された朝、おそるおそる再生して、やっぱり曇りなきハッピーソングで、それでもわたしは救われた気がして、通勤中に涙をこらえるので必死だった。
「最後まで援護させてください」
このひとことをもらえて本当に良かったと思う。
もともと日々戦っていたつもりでいたわたしを、これからもまだ続く人生をずっと戦い続けていかなければいけないわたしを、大好きなアイドルが「援護」する、と言った。
結婚しても独身でも、子どもがいてもいなくても親がいてもいなくても、そのほか恋人や友人や推しがいても、わたしが生きるわたしの人生は基本的にソロプレイであることは変わらない。誰かに代わってもらうことはできないし、他の誰かや何かを全てを凌駕した圧倒的戦力としてパーティーに迎え入れることはたぶんできない仕様になっている。
でも、たまに誰かに援護してもらったり、知らず知らず誰かの人生を援護していたり、そういう協力プレイはあってもいいのかもしれないな、なんて思う。
サムシング・ニュー。
幸せとか最高とかじゃない、手に入れたのはひとつだけ、いままで自分の中になかった、ちょっとした新しい発想だった。
プロポーズなんてなくて、式も挙げず、どこにも誓いの言葉を捧げなかったから、こっそりここに残しておく。
結婚した日が人生最高だったなんて一生思わない。結婚したからって幸せな家庭を築けるよう努力なんてしない。
わたしはわたし、自分勝手なソロプレイを続けている。結婚は、協力プレイを頼みやすい相手をひとり身近に作るためのきっかけに過ぎない。
いつまでかはわからない、ふたりにとっての協力関係が続く「最後」の日まで、援護させてください。