ヒーローはよんでもこない。
子どもの頃見たヒーローショー。司会のおねえさんは必ず、始まる前に「大きな声で〇〇を呼んでみよう!せーのっ!〇〇ー!!」とヒーローの名前を呼ばせたものだった。
さぁいざピンチが訪れたとき、わたしは、わたしたちは、懸命に彼の名前を叫んだ。
呼びかけに応えてくれる存在を疑いもしなかった。
あの頃から四半世紀ほど経って、もうわたしはピンチに陥っても誰かを呼びはしないし、そもそもピンチなんてなかった顔をするのもだいぶ上手くなったような気がする。
わたしが名前を呼んだらすぐに駆けつけてくれるほどヒーローは暇じゃないってわかったから。もしくは、ヒーローを呼んだところで、根本的な問題の解決になるわけでもないのだと知ったから。
そして、わたしが呼んでも呼ばなくても、ヒーローは存在できるしいなくなってしまうのだと気付いたから。
なのに、大人になったわたしが出会った彼らは、「元気がなくなったらまた会いに来てください」と言った。「みんなのおかげでここにいられる」と言った。
わたしたちをお姫様扱いして守り続けてはくれないし、sexyな新時代を作ってもくれなさそうだったし、みんなの友達になりたいなんて無謀なことを言っていた。
いつも楽しそうで時々とても賢いのに大概はよくわからない方へがむしゃらに突っ走っていた。それでも、だからこそ信じたいいつかのヒーローだった。
「日常に影がさしたらよんでおくれよ」、ほんとうかな、また名前を呼んでもいいかな。
ヒーローは呼んでもこない。
また会いに来てって簡単に言うけどそれは約束じゃない。どうせまた会えるか会えないかわからないカレンダーの余白だけを眺める当たり外れの日々を過ごしてその日を待つのだろう。
いくら心の支えにして時間を費やしお金を支払ったって彼らはわたしの毎日の問題を1つも解決はしない。
何より、彼らがみんなであの場所に立っていることは当たり前じゃない。名前を呼ぶことすら許されない日が、もしかするといつかくるかもしれない。
でも、
何千人のアリーナの熱気のなかで、
何万人のドームの光のなかで、
自分の声しか聞こえない浴槽のなかで、
深夜になってしまった帰り道で、
君たちの名前を呼んだとき
偶像のヒーローは、目の前に現れなくても、確かにわたしを救っている。
ヒーローは呼んでもこない。それでいい。
悲しくなったとき名前を呼べる誰かがいるだけで、人生はちょっと明るくなると知ったから。
同じ名前を他にも呼ぶひとたちがいると気付くと、なぜか幸せだとわかったから。
せめて少しでも長く、ワガママを言えばずっとずっと、君たちの名前を呼ばせてほしいな。いまはそれを1番に願っています。